社内報(まごころこみゅにけーしょん)より

Founderより

●2019年6月1日号

自戒を込めてデリカスイトの歩みを振り返ります

ありがとうございます。
令和元年の年に、デリカスイトは大きな変革に成功した!だから立派企業になったのだ!と、何十年も経て 語られるようになりたいですね。
2月の「ひら井」さんとのパートナーに続き、4月25日にはOSOZAi+バル美濃味匠も始まりました。

思えば、1961年佃煮卸売りを始め、1970年に初めての借金500万円を大垣共立銀行別院前支店でお借りしてヤナゲン大垣店テナント出店の大冒険に挑みました。
その後太田ストア(後に名鉄太田ストア)も加わり、スーパーマーケットの成長期であり、出店イコール、間違いなく売上増加の無競争の時代でした。
1972年法人化の年の年商は1億5千万円でした。
1974年ユニー尾西店からお取引が始まり本格的に多店化、1975年(年商6.8億円)、1億6千万円を中小企業金融公庫岐阜支店でお借りして築捨に旧本社工場を建設しました。
ユニー様とは45年の長いお付き合いお導きを戴きました。
ヤナゲン様、ユニー様とも多店化は急ピッチで当社も順調にチェーン展開を進めました。
1980年の江南ユニーで「すし貴族」の店名で本格的ににぎり寿司を始め大きな売上商品に育ったことが鮮明に思い出されます。
1985年、年商25億円の年に3回目の6.5億円の大借金。大垣信用金庫様の本部ビルの譲渡を受けました。
懐石料亭「美濃味匠」と「スイテック」の新事業を始めましたがなかなか思うようにはいきませんでした。
しかしパルコ名古屋店の懐石惣菜・弁当の「美濃味匠」を出店。その縁で西友様や(パルコ食品館閉鎖により)メルサ様、名鉄百貨店に出店しました。
1992年20周年パーテイを名古屋マリオットで開催し、デリカレデイの皆様も一泊ご招待させていただきました。
キラリ事業もスタートしました。1993年現在地においしさセンターを建設。炊飯システムも一新しました。
1995年に、冷夏による米不足が起きました。
96年の1月には1俵4万円と高騰、周りの外食・中食会社はほとんどブレンド米に変わりました。(タイ米・メキシコ米等をミックス)。その仕入価格差が1ヶ月1千万円、6か月我慢してみようと国産米にこだわりました。確かに皆様はデリカスイトのご飯がおいしい!と大評判になりました。5月ころに、次の作柄予想が豊作と見込まれ価格が戻り、苦境を乗り切りました。
1997年、某コンビニから納入ベンダーとしての依頼があり、第2期増床工事を決断しました。
しかし、完成間近になり、いよいよ契約という段階になり「添加物たっぷり」仕様に気が付きました。
創立以来、無添加・無着色・無化学調味料を標榜してきたのにその志を失うのは耐えがたく、ベンダーを断念しました。
やむなく、豚カツ、鶏から揚げ等の半加工に転換したものです。97年(年商69億円)、キッコーマン様から合弁会社キッコーマンデリカスイト(株)設立のお誘いを戴き、東京都内でお惣菜の「食いしん坊 万才」の展開を始め、出来たて惣菜の皿売りを学び、99年には本社1Fの懐石料亭から「OSOZAI美濃味匠」に転換(98年ソフトピアジャパンに伝心情場ビル・現本社の建設)し、その後99年からの尾張一宮・松坂屋ストア藤ヶ丘や本山店へ、2000年にはJR名古屋駅(赤帽さんの詰め所跡)に因縁の出店が出来ました。
そこまでが順風成長期、2001年は世の中も大きく動きました。
9月にニューヨークのテロと千葉の狂牛病、それにマイカルの破綻、02年にはキッコーマンデリカスイト(株)を辞退させていただきました(鶴見フーガの自社出店)。2000年、世界初ホテルのネット予約「トラベルナウ ジャパン」も02年には解消、同時期に大商社とのコンピュータ端末事業で損失、思い切って見切りをつけ(4月1日の判明、結論が9月14日、その間毎晩、胸は汗びっしょりで眠れず)、本社を狭い現在地に移して経費に大ナタをふるいました。大きな損失あったものの最終決算では最高の利益を記録しました。
2000年に大店法が廃止、どこでも自由に大型店が出店可能となった影響で、2004年〜05年には、ヤナゲン様・タマコシ様が行き詰まり、名鉄ストア様も撤退されました。
一瞬のことで、会社は潰れる、お世話になってきた恩人の会社が無くなり、当社の店も多くがなくなりました。
以降は次月に・・・。変化・失敗を恐れては駄目だが、浮かれると大変な目に合うの自戒です。

 

 


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