社内報(まごころこみゅにけーしょん)より

Founderより

令和4年 4月1日 まごこみゅ
50年を振り返る第3回。90年代出会いに恵まれありがとう、導かれつつ又一歩。

ありがとうございます。
3月15日「蔦茂」がイオンモール岡崎のJR名古屋高島屋フードメゾンにOPEN。順調なスタートです。
さて、1985年プラダ合意を因として1986年からのバブル経済、1991年には終焉を見ました。
また1989年の消費税3%、1997年には5%に引き上げられ混乱しました。
だが、毎年多くの新店や改装も続き1991年には@100億円企業プロジェクトを立ち上げ。
混迷の中でしたが、売上は1991年40億円から1997年には69億円と成長の時代でした。
1992年の創立20周年にはA店名として使っていたデリカスイトを社名に変更しました。
1993年には本社ビルの西側にB新おいしさセンターを建設。
そんな絶好?な時C冷夏によるコメ不足が起き、昨日までローソンやサークルKなどがササニシキやコシヒカリと盛んにアッピールしていたのがパタッと止まりました。
国産米は60キロ4万円の高値。
どの業者もメキシコ米やタイ米を混入した「ブレンド米」を使用。
私は、やはり国産米にこだわろうと固く決意。
稲川営業部長が月間1千万の差額ですよ!ブレンド米を使いましょうよ!と泣き付いてきました。
よし、6か月間は国産米にこだわろう!6千万円なら持ちこたえられるな!と。
おかげで4〜5か月目には来期収穫予想が出て、米価は以前の水準に戻りました。
その間、消費者はデリカスイトのご飯がおいしい!口伝に広まり売上伸長に大きく寄与しました。
4 良い食材を使えば、よりおいしくお客様に評価されるのだと。(1996年には商工会議所食品部会長になり、おいしい水、おいしいおおがき運動も進めました)
しかし、その年に私がD原因不明の全身が動かない病に罹り3週間の入院、死の恐怖も感じたものです。
早速、伊勢丹デパートで楽しく修行していた堀富則さんに帰ってきてもらいました。
 5 更に、1997年、あるコンビニから弁当のベンダーのお話を戴き、Eおいしさセンター第2期工事に着手。
いよいよ完成間近になり、コンビニ契約の詳細を知り驚愕しました。
大量の添加物使用の仕様でした。
今まで少なくとも社内調理に関しては無添加・無着色・無化学調味料を通してきたのに、諦めるのか?悩みましたが信念を貫こうと断腸の思いでベンダーを断念しました。
弁当製造の予定だった3階は、豚カツのパン粉づけや、鶏唐揚げの下調理の場に転用、6 幸いにも「無添加・無着色・無化学調味料」を貫くことができました。
同年、さらにビッグな事態が。
あの天下のキッコーマンさんが、東京で「くいしん坊万才!」のお惣菜店を展開したい、F合弁会社「(株)キッコーマンデリカスイト」を創ろうと!デリカスイトは4割の資本比率(5年間で解消)。
結果的に、量り売り惣菜店7?「OSOZAi-YA美濃味匠」(1998年・旧本社ビル1F)に基になりました。
1998年岐阜県により、ソフトピアジャパンが出來、Gスイテック伝心情場ビル(現在の本社)が完成。
世界初のホテル予約・日本語版H「トラベルナウ ジャパン」を設立。
1999年には毎日100件200室ほどの予約。
だが、技術的なことで米国の「トラベルナウ」が破綻。
FとHは2002年に会社解散に至りました。
1998年にJR大垣駅アピオ「美濃味匠」、1999年にJR尾張一宮駅「美濃味匠」や松坂屋ストア藤が丘と本山に「美濃味匠」。
翌年2000年のJR名古屋駅「美濃味匠」へと繋がってゆきました。
あざなえる縄のごとし、良いことが災厄の因、また、苦境から希望の種が!ドキドキの90年代。
それが21世紀には予想もつかない事態が!(次月につづく)