ありがとうございます。
1972年2月2日、デリカスイト(水都食品株式会社)が設立されてから50年。
これまで育てて頂いた大垣市に(コロナ禍の苦境ではありますが)節目の時と100万円を寄贈させていただきました。早くコロナを乗り越えて楽しいイベントが出来ることを願っていますが、折角の節目でもありますので、全グループ会社の仲間の皆さんには、心ばかりですが、槌谷のお菓子を贈らせていただきます。
1980年に挑戦した「すし貴族」江南店が爆売れし、急速に店舗展開を進めました。
976年にユニー様との取引が始まり、早速OKBさんに借金をお願いして10万株を取得、(当時は許されていた)大株主懇談会にお招きいただき西川社長とも面識ができました。
ヤナゲンも快進撃、ユニー(中部と北陸)、名鉄、に続き、タマコシ、カネスエ、ジャスコ、サワムラヤ、平和堂、ヤオジンの各社様へ出店。
1978年に大垣駅通の郭町西側に「デリカスイト」、東側に「おにぎり太郎」、岐阜市柳瀬入口の「デリカスイト徹明店」の路面3店にも挑戦しました。
しかし車社会の発展とともに中心市街地の勢いが衰えてきました。
1980年の年商が18億円、年に数店から10店舗以上の新店展開、毎月新OPENが続きました。
1985年はプラザ合意、グローバル化の始まりのまさにその年に大垣信用金庫様の本部ビルを購入。
世の中の変化「高齢化・国際化・情報化」に合わせて、高級化をめざして「懐石料亭美濃味匠」と「スイテック」を始めました。
考えてみればその原点が「美濃味匠」事業に、さらには「ひら井」「蔦茂」に繋がっているのかもしれません。
何も分からないままにコンピュータ事業に参入、幸い西濃運輸の田口利夫社長に可愛がれ、セイノー情報サービス社長の鈴木秀郎(日本郵船の情報トップからセイノーへ)、駅弁VANなども体験しました。
物流の壁で失敗しましたが、駅弁事業「水了軒」や、今日コロナ禍の中で活躍しているスイテックに繋がったのでしょう。
また、その年に「管理栄養士の国家試験」に合格、日本商工会議所の販売士1級試験にも挑戦、見事日本一の成績で、当時の会頭、五島昇(東急電鉄の社長)から表彰状を頂いたことが懐かしく思い出されます。
末娘の小学校のPTA会長も引き受け通学服のゼッケンナンバー廃止なども実現したものです。
1988年には「ぎふ中部未来博」が開かれ、職員食堂を受託運営したことも思い出されます。
新業態開発に向かい「すし貴族」「おにぎり太郎」専門店、「ひだぎゅう亭」「クレープハウス」や「CAPITALE de L‘EAU」(キャピデロ)店名のパン屋さんにも挑戦しました。
1989年、名古屋パルコ食品館に「懐石弁当美濃味匠」と「駅弁VAN」の豪華な店舗で進出(その後5年間ほどで、パルコが食品館から退却して、メルサから誘致を戴き、今日の美濃味匠に繋がってきました)
1987年日本で初めてポーランドポスター展に誘われて日本国際ポスター美術館に繋がっています。
1980年代はとにかく、がむしゃらに、声かかれば「ハイ、喜んで」と全て、引き受けて楽しんだ良き時代でした。
挑戦!こそ1990年には40億円まで売上拡大した原動力だったのでしょう。
株式会社デリカスイトの設立50周年の節目を記念して、市民の健康、特に未来を担う
子どもたちの健康など子育て支援の充実のため寄付贈呈をいたしました。
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