社内報(まごころこみゅにけーしょん)より

Founderより

令和2年7月1日 まごこみゅ
Withコロナの時代は!

ありがとうございます。
少しづつ、少しづつお客様が戻っていただいています。
登り坂、下り坂、そして「ま坂」という坂があるんだよ!聞いてはいましたがホントにマサカですね。
夢いっぱいの2020年!マサカの存亡の危機年になっています。でもマサカの後には登り坂があるはず。
私が自動車免許を取ったのが1960年の4月高校3年の時、まだ自動車が珍しい時でした。その後に車社会が始まり、米国からのセルフ販売方式、スーパーマーケットができ始めました。
全国で「主婦の店」運動が始まり2番目に「主婦の店大垣店」が開店しました。
自宅借地の大家さんが経営者、その縁で佃煮を納入。その後県内各地に(中津川、恵那・・今のバロー、土岐、美濃等)ボランタリーチェーン展開。
大垣主婦の店のご紹介で順次販路ができました。
前日仕入れて、翌朝に名古屋の卸売市場で引渡す毎日でした。
名古屋の大手佃煮メーカーも新興小売業を追認するようになり価格攻勢で参入。
守勢一方で、それを凌ぎながら、太田ストア(後に名鉄がM&A)名鉄多治見ストアの佃煮やおにぎり売り場を任されました。
25歳長男誕生の年に、地元に岐阜経済大学開校、朝は名古屋市場へ行き、夜は電話受注の商品準備、昼間に大学受講。
大学の同級生がアルバイトで小売業に転換した仕事を手伝ってくれました。
その逆境の中、70年大垣ヤナゲンにテナント出店。
佃煮ではなかなか売上が上がらず、経験ないままに「サラダでーす」「おにぎり太郎」「あげあげ」「チキン博士」「水車寿司」コーナーに挑戦しました。(丁度卒業、この時に調理学ぶために名古屋栄養短大で栄養学科に)
以降、ヤナゲンさんの多店化が始まり、惣菜のセルフ販売(日本初?)で売れに売れました。
ユニーさん・タマコシさん・カネスエさんその他毎月オープンする状況が続きました。
その内、また逆境が。
生鮮3品の直営化を済ませ、惣菜も直営化しようの流れが始まりました。
また飛ぶように売れていた寿司貴族(握り寿司)は回転すし出現で、ローストチキンもケンタの出現で大幅ダウンの大逆境!
では専門店構築をと懐石料理「美濃味匠」オープン。(同時に「スイテック」をゼロからスタート、現在の稼ぎに感謝)
キッコーマン様に頼まれ合弁会社「キッコーマンデリカスイト」で惣菜「くいしん坊 万才」25店、5年で辞退。
懐石料理も閉鎖。
その後、「美濃味匠」ブランドを惣菜店に使用、デリカスイトよりワンランク上の美濃味匠を!(女性の小関さんを責任者に起用)OSOZAi-YA美濃味匠の誕生。
パルコを経て、メルサに、JR大垣駅(2階)を縁に名古屋駅(赤帽廃止の従業員控室の跡地)などに出店。
グローバル化が進み、マイカルの破綻・ヤナゲン・タマコシ・名鉄パレの数十店が消失の危機。
セントレア、JR尾張一宮・岐阜・大垣駅にOSOZAi+CAFE´「美濃味匠」。その後、ウオフク・水了軒を承継。
しかし、コンビニの惣菜弁当の充実・食品スーパー・ドラッグストアなどの低価格競争激化、そしてユニーまでドン・キホーテさんの傘下で売り場減少の大逆境。
ひら井・蔦茂・槌谷の経営を頼まれ、歴史的ブランドと調理技術を活かして高級化をめざそう。
そこへ新型肺炎コロナウイルス!
ヤナゲンさん、タマコシさん、富田屋さん、川口屋さん!その他スーパーマーケットはほぼ消えた。
ユニーさんもドンキさんに吸収!数々の危機を乗り越えてきました!生き残ってきた。
コロナを乗り越えよう!
しばらくはご迷惑かけます。
ふるさと納税の飛騨牛すき焼きセットが初売上!父の日「ひら井・蔦茂のうな重セール」でお知り合いに声をお掛けして予約頂きました。
頼むのは恥ずかしい!確かに!でも食は喜ばれるのです!料亭の味、銘菓も。
食はいつの世にも必要!7月!七夕、土用丑、お盆、スポーツ、クリスマス、正月、節分、ひなまつり、子供の日、母の日、父の日のお祝、卒業、合格、入学、転勤!昇進!誕生日祝い、お見合い、家族顔合わせ!結婚!出産、百日祝い!同窓会。銀婚式、金婚式、還暦、古希、喜寿、傘寿、米寿etc…喜ばれる場面はいっぱい。
あなたの縁ある人に喜んでもらおう!苦しい時こそお願いしてみよう。乗り切ろう。